文化財の修理について
はじめに
当社が主に取り扱っているのは、有形文化財の中でも絵画・書跡を中心とする美術工芸品です。
有形文化財は、絵画・工芸品・書跡・典籍・古文書など、形のある文化的な所産の総称で、その価値の高さから重要文化財や国宝に指定されるものもあります。
これらの作品は紙や絹などの有機材料で作られているため、光・温湿度・虫害などによって劣化しやすく、適切な時期に修理を行いながら受け継がれてきました。文化財の修理は、こうした作品を未来に伝えるために欠かせない大切な営みです。
文化財の保存修理とは
作品が持つ本来の価値を損なうことなく、将来の修理にも支障が生じないように整えるための、最小限かつ可逆的な処置を指します。当社では、次の修理がおこなわれるであろう百年先を見据え、環境の変化に耐えうる安定した状態へ導くことを目標にしています。処置は必要な範囲にとどめ、伝統的な材料と技術を適切に用いることで、未来の修理技術者が安全に作業を引き継げる状態を確保します。文化財を長く守り伝えるためには、「直しすぎないこと」「後の世代にとって安全であること」を大切にし、慎重な判断のもとで修理方針を決定しています。
技術
補修
破れや虫食いによって欠けた部分には、作品に合わせた材料を用いて補填します。絹本の絵画では、織り目や糸の太さ・厚みを合わせた絵絹を人工的に劣化させ、質感や強度を作品に近づけた補修絹を用います。写経や古文書では、原料や地合い、密度、色調を細かく調整した補修紙を作製して補修を行います。絵画・書跡いずれも欠損部の形状に寸分違わず補います。
補修紙による補紙
補修絹による補絹
剥落止め
経年劣化によって絵具層の接着力が弱くなると、微かな衝撃や振動でも絵具が剥がれ落ちてしまう危険があります。そのため、膠を主体とした接着材料を浸透させ、絵具層を安定させる「剥落止め」を行います。絵具全体をまとめる場合や、基底材(紙・絹)との接着を補強する場合など、目的に応じて膠の種類や濃度、浸透の深さを細かく調整します。紙本・絹本の絵画・書跡だけでなく、板絵や工芸品の彩色層にも対応できる、繊細かつ高度な技術です。
塗布
挿し込み
裏打紙の打ち替え
絵画や書跡の本紙を裏側から支えている肌裏紙は、長い年月の中で劣化が進み、強度を失ってしまうことがあります。この肌裏紙を安全に取り除き、新しい裏打紙へと取り替える「裏打紙の打ち替え」は、修理工程の中でも特に重要で、高度な判断が求められる作業です。傷みの少ない作品には、加湿によって糊を緩めて紙を剥がす「湿式肌上げ法」を行い、劣化の激しい仏画などには、布海苔やレーヨン紙で表面を養生してから、わずかな範囲を筆で湿らせて繊維をほぐしながら除去する「乾式肌上げ法」を用います。画面への負担を最小限に抑えるため、どの方法が最も安全で適切かを慎重に見極めながら作業を進めます。裏打紙の取り替えによって、作品は安定した状態となります。
湿式肌上げ法
乾式肌上げ法
道具
刷毛と筆
裏打ちや補修、剥落止めなど、工程ごとに適した刷毛や筆を使い分けます。動物毛の刷毛には、馬尾・羊毛・鹿毛などがあり、押さえる・含ませる・均すといった用途に応じて選ばれます。一方、棕櫚(しゅろ)や津久毛(つぐも)といったヤシ科植物由来の刷毛もあり撫ぜ込む、打ち込むといった特別な用い方をします。筆も、糊付け・剥落止め・ほこり払いなど用途ごとに材質や形状、硬さが異なる多様な種類を使い分けます。これらの刷毛や筆は、伝統技術を受け継ぐ職人によって作られ、材料の入手が難しくなりつつある大変貴重な道具です。

刃物
表具や巻子の仕立てには、独特の形をした「丸包丁」を使い、定規に沿わせながら裂地や紙を正確に裁ち落とします。古文書の欠損部分を補う際には、補修紙を欠損部の形状に合わせるため、「印刀」を用いて繊維を薄く削り取ります。このほか、小刀や握り鋏など用途に応じたさまざまな刃物を使い分け、作業の精度を高めます。いずれの刃物も、打ち刃物製法による伝統的な道具で、使用前後には研ぎを行い、自分の手になじませていきます。

調査機器
修理に着手する前には、作品の状態を正確に把握するため、さまざまな調査機器を用いて詳細な記録を行います。顕微鏡では、絵具の粒子や紙・絹の繊維の状態を観察し、劣化の程度や損傷箇所を確認します。赤外線や励起光下での観察では、通常の目視では見えない描線や補修跡、隠れた情報を読み取ることができます。また、高画質の写真撮影によって修理前の状態を正確に記録し、作業中、修理後の比較資料として活用します。これらの調査結果は、修理方針の決定だけでなく、所有者や研究者への共有資料としても重要な役割を果たします。

材料
和紙
文化財修理で使用する紙は、いわゆる「和紙」と呼ばれる伝統的な材料です。洋紙が木材パルプを原料とするのに対し、和紙は楮(こうぞ)・雁皮(がんぴ)・三椏(みつまた)などの植物の靭皮繊維から作られ、強さやしなやかさに優れています。中でも楮紙は、傷んだ作品を裏側から支える裏打ちや、古文書の欠損部分を補う補修紙など、幅広い用途に適した素材です。手漉きによる丁寧な製法で作られた和紙は、繊維が長く耐久性が高いため、百年先の次の修理まで作品を安定して保つことができます。
楮・雁皮・三椏
接着材料
文化財修理で使用する接着材料は、古くから受け継がれてきた安全性の高い素材が中心です。絵具や墨を紙や絹に定着させる「膠(にかわ)」は、動物や魚の骨・皮を煮出して作られる伝統的な接着材で、世界中で長い歴史を持っています。裏打ちに使う「新糊(しんのり)」は小麦澱粉を加熱して作られ、複数層の裏打ちを重ねる途中からは、10年程度熟成させて接着力を弱めた「古糊(ふるのり)」を用いて、表具や巻子が柔らかく巻ける状態を保ちます。また、海藻由来の「布海苔(ふのり)」は乾式肌上げ時の画面養生や、絵具の剥落止めなどにも使用されます。これらの材料は長い使用実績によって“どのように経年変化するか”が分かっているため、将来の修理作業を妨げず、文化財を安全に未来へつなぐための重要な基盤となります。
膠
古糊・新糊
布海苔
劣化絹
古い仏画など絹本の作品は、経年劣化によって絵絹そのものが非常に弱くなり、少しの力でも裂けやすい状態になっています。欠損部分の補填には、強度のある新しい絵絹をそのまま使用すると負担が偏り、作品本体をさらに傷めてしまう危険があります。そこで用いられるのが「劣化絹」で、絹の織り目や糸の太さを合わせた手織りの絵絹に、電子線照射を行って強度や伸縮性を人工的に弱めた素材です。本紙の損傷状態に合わせて絹の性質を調整することで、作品に馴染む自然な補修が可能となり、弱った文化財を安全に支えることができます。劣化絹は、絹本作品の補修において欠かすことのできない、特に専門性の高い材料です。
劣化絹
本紙の色調に合わせて染色し裏打ちしたもの、右端は未染色のもの。